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世界が知ったチベット問題 多民族国家での民族自立とは何か

08/05/25 12:00 東京経済オンライン

 テレビを通じて、亡命チベット政府の国旗である「雪山獅子旗」が世界の人々に大きく報道され、チベット人とチベット仏教に対する関心が急速に高まっている。きっかけは3月10日から14日にかけて起きたラサ暴動である。中国に対するチベット人の抗議活動が暴動に発展し、それを中国の警察と軍隊が鎮圧する場面が世界中に放映された。

 4月には、北京五輪の聖火リレーへのチベット人の妨害活動が世界各地で繰り広げられ、長野市では雪山獅子旗と中国人留学生が持つ中国国旗=五星紅旗が沿道を埋め、二つのナショナリズムの衝突を象徴した。

 5月、中国の胡錦濤国家主席が日本を訪問し、8日に早稲田大学で講演したが、その際にも胡錦濤国家主席に抗議するチベット人らの集会があった。

 8月に開催される北京五輪は中国の発展を世界に示す歴史的イベントである。そのイベントを狙い撃ちしたかのように、チベット人の抵抗運動が展開されている。

世界が知ったチベット問題

 こうした一連の活動が、インドに本拠を置き、ダライ・ラマ14世(1989年のノーベル平和賞受賞者)を指導者とする、亡命チベット人によって行われていることは疑いの余地がないだろう。亡命チベット人の人数は世界で約13万4000人と少ない(ダライ・ラマ法王日本代表事務所のWebより)。

 中国という世界の巨人への抵抗運動に投じられるヒトとカネは小さいだろう。だが、テレビで大きく報道されたことで、世界の人々にチベット問題への関心を高めることに成功している。同時に、チベット人を抑圧する中国というイメージを世界の人々に焼き付け、中国の評判を落とす効果をもたらしている。活動は水際立っているという印象すらある。

 フランスのサルコジ大統領は、3月のラサ暴動後の記者会見で、北京五輪の開会式に出席しない可能性があることも示唆した。

 一部とはいえ、欧米の有力な政治家や、チベット仏教の信者で、ダライ・ラマ14世を熱烈に支持する俳優のリチャード・ギアなど有名人が中国のチベット人への抑圧を批判していることは、メンツを何より重んじる中国にとって、ボディブローのように効いてくるだろう。

 チベットとは何か。今後のチベットと中国との関係はどうなるのか。歴史をさかのぼって考えてみたい。

侮れないチベット仏教の力

 かつてチベット人が支配し、現在でもチベット人が居住している「歴史的チベット」の範囲は広い。現在の中国のチベット自治区と青海省に加えて、四川省の西部、甘粛省の一部が含まれる。5月12日、四川省西部を震源とする大地震が起きたが、震源地のアバ・チベット族チャン族自治州はその地名が示すように、「歴史的チベット」に含まれる地域である。また、日本でも関心の高いパンダも多くは四川省の「歴史的チベット」地域に生息しているという。

 チベット人のアイデンティティはチベット仏教とチベット語である。チベット仏教は仏教のあらゆる宗派を含んでいる。

 曼陀羅や呪術を使うことから、日本では真言宗、天台宗の密教と同じ系譜の仏教と狭く理解されがちだが、「チベット仏教は、インドから直接伝来し、仏教の原典を保存し、顕教から密教までを含む総合的な仏教であり、高度な哲学や論争術から薬草などの実用的知識までも含む宗教である」とモンゴル・中央アジア史研究者の宮脇淳子氏は指摘する。

 チベット仏教は、チベット人だけではなく、モンゴル人、満州人などにも広まった。ロシア連邦のカルムイク共和国もチベット仏教の国である。

 18世紀、清朝最盛期の皇帝である乾隆帝は深くチベット仏教に帰依した。現在の河北省に「外八廟」と呼ばれる壮大なチベット仏教寺院群を巨費をかけて建設する。チベットのラサにあるポタラ宮殿を模した「小ポタラ宮」まで建設する。チベット仏教の壮大なテーマパークである。その中心にある熱河離宮で、乾隆帝は1780年にチベットからパンチェン・ラマ6世を招いて、仏教の祝祭を執り行う。

 このとき、乾隆帝はパンチェンラマ6世に皇帝と同じ待遇を与えたばかりか、衣服を僧服に替えた際には、信者としてパンチェン・ラマ6世の前にひざまずき、叩頭している。

 パンチェン・ラマはダライ・ラマの次の位の僧侶である。その僧侶に天下の皇帝がひざまずいたのだ。

清は民族の独自性を望んだ

 清朝の皇帝がここまでチベット仏教に帰依した動機は、同盟者であるモンゴル人の歓心を買い、チベット仏教の影響力の強い地域の政治的安定を図るためだった、といわれている。だが、「清朝の国教はチベット仏教」とチベット仏教の側が考えたとしても無理はなかった。

 清朝を株式会社に例えると、満州人とモンゴル人の統治者が持ち株会社を作り、その傘下に漢人、満州人、モンゴル人、チベット人、ウイグル人が連なる。それぞれの企業は独自の企業文化を守りながら、持ち株会社に貢献するという仕組みだったように見える。この中で李氏朝鮮は持ち分法適用会社に当たるかもしれない。

 清朝の皇帝は、漢人に対しては、「中華皇帝」、モンゴル人に対して「大ハーン」、チベット人に対しては、「文殊菩薩」、ウイグル人などイスラム教徒に対しては「イスラム教徒の保護者」とそれぞれ顔を使い分けながら、同君連合の形で、統治する。清朝の皇帝が望んだことは、臣民の同化=漢人化ではなくそれぞれが独自性を保つことだった。

 だが、清朝は1895年、アジアでいち早く西洋化=国民国家化を実現した日本に敗北する。その衝撃から清朝も西洋化=国民国家化を志向する。もはやモンゴル騎兵もチベット仏教も無用の存在になる。清朝とチベット仏教の蜜月は終わる。

 清朝崩壊後の1913年から50年ころまで、チベットはつかの間の「独立」を享受するが、国際的な承認を得る努力を怠り、50年に中国人民解放軍の侵攻を受けて、中国に編入される。56年の中国に対する武装蜂起失敗後、59年にダライ・ラマ14世はインドに亡命する。亡命政府の要求は、中国の主権は認めつつも広範囲な自治権の回復である。

 だが、中国はチベットに対しても同化を進めている。これを亡命チベット人から見れば、チベット固有の文化の消滅=漢人化である。亡命チベット人は、中国に対して効果的な抗議活動をする力をつけているが、広範囲な自治権回復を実現するだけの力はない。チベット問題は多民族国家での少数民族の自立はどうあるべきかという、今日、世界各地で起きている課題を突き付けている。(内田通夫 =週刊東洋経済)

by deracine69 | 2008-05-25 12:00 | アジア・大洋州  

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