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宗教と殺人、矛盾の原因は

2008年11月13日 朝日新聞 日々是修行 佐々木閑

 まっとうな宗教なら、「人を殺せば幸せになれる」とは言わない。「自分が嫌なことは、他人も嫌がるに違いない」という同類への配慮があって初めて、人の心は和むのであって、他者を「殺してやろう」と、心がグツグツ煮えたぎっている者に、安穏などありえないからだ。宗教の目的が、「穏やかな日々の実現」になるなら、そこには必ず「同類を殺すな」という教えが入ってくる。だから宗教は、流血とは一切無縁なはずなのだ。

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 ところが話は逆だ。誰もが知る通り、多くの宗教の過去は血塗られている。宗教のせいで殺された人の数は想像もつかない。これはあまりに大きな矛盾ではないか。なぜ宗教が殺人と結びつくのか。

 その一番の理由は、「同類を殺すな」という場合の「同類」の意味の取り違えである。それを「同じ考えを持つ者」と限定していしまうと、「自分たちの考えに従わない者は同類ではない。敵だ。敵なら殺しても構わない」という理屈になる。殺さないまでも、「敵なら苦しめてよい」と、憎しみが正当化される。

 「同類」の意味をどう設定するかで宗教は、優しく穏やかなものになったり、苛烈で排他的なものになったりする。その宗教がどれほど平和的で穏健なものか知りたければ、その宗教の「同類意識の幅の広さ」を見ればよいのである。

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 仏教の歴史にも、血の染みはついている。それは否定できない。だが釈迦にまで遡れば、そこに暴力の影はない。釈迦の仏教は、「人には、仏の教えで助かる者もいれば、そっぽを向いて別の道を行く者もいる。せめて、こちらを向いてくれる者だけでも助けよう」と考える。自分たち考えを認めない者を「教えの敵」とは見なさない。「こちらへ来てくれないのは残念だ」と失望するだけだ。すべての生き物は「同類」なのである。

 「考えは異なっていても、生き物としては皆同類だ」と考えることで、釈迦の仏教は一切の暴力性を振り払った。その理念は、現代社会でも貴重な指針となるだろう。
(花園大学教授)

by deracine69 | 2008-11-13 15:00 | 社会  

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