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「やばい」

2008年10月10日0時31分 ダイヤモンド・オンライン

「やばい」という言葉がある。その語源には諸説あるようだが、いずれにしろこれは下品な隠語と呼ぶべきものであった。『大辞林第三版』によれば、「やばい」とは「やば」という言葉が形容詞化したもので、もとは、盗人・香具師(やし)が使用した隠語だとのことである。「やば」とは危険なさまや不都合な様子を指す形容動詞で、『膝栗毛』には「おどれら、やばなことはたらきくさるな」という用例があるそうだ。現代語に訳せば、「おまえら、それはやばいよ」となろうか。盗人たちの隠語だったとすれば、それをまっとうな人間が使うべきではない、下品な言葉とみなすにも理由があったといえよう。

 盗人言葉であるとすれば、「やばい」とされる対象は、あまり合法的とはいえない活動を指したに違いない。たとえば、人目を避けていかがわしい場所に忍び入り、少々やんちゃな悪さをしようとしたところを誰かに見つかりそうになったとする。そんなときに、「これはやばい」と表現するのは、語源からして正当な用法といってよかろう。

 いくら全国に普及し辞書にも採用された言葉とはいえ、それによって語感が上品になったという感じはしない。現在でも、良識ある大人が公に使うべき表現ではなかろうと私は心得る。

「やばい」の新しい意味

 ところが、若者の間では「やばい」の意味が、最近変化を遂げつつあるらしい。レストランや居酒屋で情報収集のために神経を研ぎ澄ましていると、「これ、やばいです」というような表現を耳にする。しかも妙齢の女性が下品であるはずのこの言葉を公の場で平然と使うものだから、私などは少なからず驚いてしまう。

 いったいこれはどういうことなのか。再び『大辞林第三版』によれば、「やばい」には自身の心情が強く揺さぶられるほどすごい、という意味が発生しているとのことである。しかも、これは肯定の意味にも否定の意味にも使われるそうである。

 つまり、レストランで女の子が「これはやばい」と叫んでいたら、それがびっくりするほどおいしいという意味であることも想定しておかなければならないということだ。私が気に入っている路地裏のあやしげな飲み屋に行って、そういうところはたいてい見るからにやばい店構えをしているわけだが、「この店はやばいですね」と連れが言ったとすると、これをどのように解釈すべきなのかとてもややこしい。

 新しい「やばい」の使い方が登場したことによって、実際にこのように入り組んだ状態に陥る危険性はないのだろうか。そこで「やばい」の正確な用法を学ぶためにインターネット検索を試みると、「とてもすごい」といった意味の形容詞として、すでに広く使われていることがわかる。いくら調べても私自身の違和感はまったく払拭されないのだが、他方で使い手の間であからさまな不都合が生じているようにも見えない。

 私の理解では、「あの技はとてもすごい」という代わりに、「あの技はやばい」と表現できる。また、「この絵はすごく良い」と書く代わりに、「この絵はやばい」と書いても良い。「すごく寒い」の代わりとして「やばい寒い」という表現も発見した。もっとも、意味はともあれ発音することを考えれば、せめて「やばく寒い」と書いてほしいものである。

 この「やばい」に新しい意味が発生したからくりは、次のように理解できる。まず、「心体に不都合が出るくらいすごい物事」という大げさな表現から出発する。この中の不都合という部分を俗語変換すれば、「心体がやばくなるほどすごい物事」、あるいはもっと単純に「やばくなるほどすごい物事」となる。最後に言葉を大胆に省略すれば、「やばい物事」ができ上がる。

 どうやら、この「新型やばい」の使い手たちは、このあたりの事情を理解して、江戸時代から続く「やばなこと」をそのまま現代語に置き換えた旧型やばいとの論理的整合性には特段の問題はないと判断している確信犯らしい。

 しかし、最後に得られた形だけを見ると、これが省略を施した結果得られた「新型やばい」なのか、それとも「古典的やばい」なのかは判別できない。結局、やばいが肯定的に使われているのか、それとも否定的に使われているのか判断するには、前後の文脈から推論するしかないのだ。

「新型やばい」の戦略効果

 ほとんど正反対の意味が共存し得るという、言葉としては致命的な欠陥を有しているにもかかわらず、「やばい」の新しい用法が若者たちの日常会話を飛び出して、辞書に載るほどまでに定着したのは、なぜだろうか。

 その理由を考え始めると、この現象は「ありがとう」の変遷にも似ていることに気づく。「ありがとう」の語源をたどれば、これは「有り難し」に行き着く。これは、有ることが難しい、すなわちめったにないという意味である。もとはと言えば、「ありがたき幸せを喜ぶ」「ありがたき御配慮に恐れ入る」などのように、めったにないほど素晴らしい幸せを喜ぶ、めったにない特別のご配慮に感謝するという文章形式で使われていたはずのものである。ところが、江戸時代になると、めったにない物が何であるのか記述するのを省略して、「ありがたし」だけで感謝の気持ちを表すようになり、現代語の「ありがとう」に至るのである。

 めったに起こらないことには、良いことも悪いこともあるはずだ。よって、論理を純粋に追求するならば、「ありがとう」だけ単独で使用された場合には、肯定的な意味も否定的な解釈もあり得る。もし「ありがとう」が定着する前の時代に現代人たちが紛れ込んだとしたら、その人々が「ありがとう」だけで用を足すのに顔をしかめ、それでは良い意味だか悪い意味だかわからないではないかというエッセイを書くような人物が生まれたに違いない。

 しかし、現代の日常会話で、「ありがたき幸せを喜んでおります」などと言われると、むしろ大げさすぎてくどいように聞こえるだろう。単に「ありがとうございます」と言われたほうがよほど感謝されているような気分になる場合が多いのではなかろうか。つまりここには、当然となる価値判断の部分にかかわる記述を省略したほうが、より気持ちが伝わるという感覚が横たわっているのである。

 では、なぜそのような価値判断を表す根幹部分の省略が、人々に好まれるのであろうか。

 明らかに、そのような省略が行われても不都合が生じないためには、省略されてしまった価値判断にかかわる前提が、お互いに正しく理解されていなければならない。つまり、省略部分を正しく補い意味に齟齬(そご)を生じさせないためには、多くの経験と価値判断を共有している同じ集団に属していることが、お互いに認識されていなければならないのである。

 また、省略された部分を意識の下で確認しあうという行為が、お互いの間で価値観が共有されていることの理解を深める点も見逃せない。言葉の意味にあいまいさがあるときには、理解するために聞き手のほうにはあいまいな部分を頭の中で補う必要が生まれる。そして、その間隙を共通の言葉で埋めるという体験を通じて、お互いが利害を共有している仲間であるということをいっそう深く感じることができるのである。

 言葉の省略とは、お互いが価値観を共有していることを確かめる検査をしているようなものなのだ。やばいに限らず、一般に隠語を共有することに独特な喜びが生まれることにも、同様な説明ができる。それは、省略された前提を知らなければ理解できない隠語を使いこなすことで、共同体感覚や仲間意識の再確認作業をすることができるからである。

 言葉を省略することに、そのような効果があるとすれば、言葉の省略をしないということは、かえって相手と自分の間の距離を遠ざける可能性があるということを示唆する。省略をせずにあえて述べるということは、それは意味の補完ができるかどうか疑わしいと考えていることの現れである。すると、当然自分も仲間であると考えていた人は、自分が相手と価値観を共有しているかどうかを疑われているようで、面白くないと感じるのである。

 これらを考慮すれば、お互いの間でわかりきっているはずの事柄は、あえてくどく説明せずに省略することが、相手との関係を密にするために有力な戦略になっているといえるだろう。つまり、仲間であることを確認し強調するために、言葉をできるだけ省略しよう、あるいは極端に前提が省略された隠語を使いたいというインセンティブが働くのである。

「新型やばい」の将来

 さて、省略という点では「ありがとう」と共通項があっても、「やばい」の場合には「旧型やばい」にすでに否定的な意味が付与されてしまっているという現実がある。混乱を避けるため、そのうちに「良いやばい」と「悪いやばい」という使い分けが発生するかもしれないが、そのように面倒などちらつかずの言葉はなおさら使わないほうがよいということになり、それでは「やばい」はいつまでたっても俗語の域を出ないだろう。

「新型やばい」がその意味をいっそう確固たるものにするためには、「旧型やばい」の用法が駆逐されてしまう必要があろう。そして、可能性ということでいえば、旧来の用法を使いこなす人が減少することで、しだいに「やばい」とは特別な感動を表すほうが主たる意味になっていくこともあり得る。

 道行く人々が、「今日は本当にやばいですね」とあいさつを交わすような図はなかなか私には思い浮かばないが、長い歴史の中ではそういうこともあるものなのかもしれない。ただし、それが現実のものになるとしても、私のような「旧型やばい」の使い手たちが死滅した後の遠い将来のことであろうが。
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by deracine69 | 2008-10-10 00:31 | 社会  

武庫川女子大が調べた使用頻度高い動詞 スポーツ誌に意外なキーワード

5月12日16時19分配信 産経新聞

 ■金本選手ら「続ける」

 スポーツを語るキーワードは「続ける」と「呼ぶ」? 武庫川女子大言語文化研究所(兵庫県西宮市)がスポーツ雑誌を対象に記事に使われる動詞を数えた結果、「戦う」「勝つ」などに比べ、「続ける」「呼ぶ」の使用頻度が高いことが分かった。40歳代前後でも現役を続ける選手が増えたことなども理由のひとつとみられ、同大学は「スポーツにそぐわないような言葉で意外な結果だったが、アスリートにとってこの2つが最も大切な要素であることを示しているのでは」と分析している。

 隔週発行のスポーツ雑誌「Sports Graphic Number」の昨年4~8月の10号分計806ページについて、掲載されている注目選手やチームへのインタビュー、評論記事などのうち、会話文などを除いた個所を対象に動詞の出現頻度を調べた。

 その結果、「する」「いる」「なる」といった抽象的なもの以外では「続ける」が56回、「呼ぶ」が34回と使用頻度が高く、「勝つ」(22回)「走る」(31回)「戦う」(29回)などを上回った。使用例としては「プレーを続ける」「日本代表に呼ぶ」などで、継続性や試合・大会への出場に関連する言葉として使われるケースが多かった。

 サッカーや野球などの記事が多いのが理由だが、これに加え、サッカーの元日本代表、三浦知良選手(41)や連続フルイニングの世界記録を更新するプロ野球、阪神タイガースの金本知憲選手(40)ら40歳代でいまなお現役を続ける選手が増え、今年3月に39歳で現役引退を表明した米大リーグのピッツバーグ・パイレーツの桑田真澄投手のプレーなどが注目されたのも要因とみられる。

 同研究所は「どんな偉大な勝利や記録も、続けて出場していないと達成できない。続けるや呼ぶが多いのは、人生につながる要素かもしれない」と話している。
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by deracine69 | 2008-05-12 16:19 | 社会