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華国鋒元主席が死去=毛沢東氏の後継者-中国

2008/08/20-23:14 時事通信

 【北京20日時事】新華社電によると、中国共産党の華国鋒元主席が20日午後0時50分(日本時間同1時50分)、病気のため北京で死去した。87歳だった。1976年9月の毛沢東主席死去後、後継者として政権トップに立ったが、トウ小平氏(故人)との権力闘争に敗れ、80年代初めに失脚。以後、公式活動はほとんど伝えられていなかった。元共産党トップで存命なのは江沢民前総書記だけとなった。

 山西省出身。本名は蘇鋳。文化大革命(66~76年)中に急台頭。湖南省党委第1書記から、73年党政治局員、75年副首相兼公安相に昇進し、76年4月には党第1副主席・首相に就任した。毛主席死去直後の同年10月、文革を主導した江青・毛主席夫人(故人)ら「4人組」を逮捕し、77年7月党主席・中央軍事委員会主席に就任。毛主席から「あなたがやればわたしは安心だ」と託されたメモが後継の根拠とされた。

 しかし、党内の政治基盤は弱く、復活したトウ氏らから毛主席の決定・指示を墨守していると批判され、非毛沢東化と改革開放路線への転換の中で実権を失っていった。


華国鋒・中国共産党元主席が死去 87歳
2008年8月20日20時37分 朝日新聞

 【北京=藤原秀人】中国国営新華社通信によると、毛沢東主席の後継者として中国共産党主席などを務め、文化大革命を推進した江青・毛夫人ら「四人組」の逮捕にも尽力した華国鋒氏が20日、病気のため北京で死去した。87歳だった。

 新華社は「優秀な党員で、長きにわたり試練に耐え抜いた忠実な共産主義戦士」と伝えたが、78年にトウ(トウは登におおざと)小平氏との権力闘争に敗れた後は、急速に影響力を失っていた。

 山西省出身。本名は蘇鋳だが、抗日戦争に参加した際の「中華抗日救国先鋒隊」から名前をとったとされる。湖南省での農業面での活動などで毛氏の評価を得た。周恩来首相死去直後の76年4月、毛氏の指名で首相に就任。毛氏から受け取ったという「あなたがやれば安心だ」というメモを後継者の証しにした。

 毛氏が76年9月に死去した後、四人組の逮捕に踏み切り、同年10月に党主席と中央軍事委員会主席に就任し、中国のトップになった。しかし「毛氏の決定はすべて断固として擁護し、毛氏の指示はすべて守る」という「二つのすべて」という路線は、是々非々の立場から毛氏を評価し直そうとしたトウ氏との深刻な対立を招き、結局はトウ氏との闘争に敗れた。逆にトウ氏は78年12月の第11期中央委員会第3回全体会議(3中全会)で、改革開放路線を決定し、経済発展の道を開いた。

 81年に党主席を辞任後も党中央委員にとどまったが、02年の第16回党大会で引退。昨年10月の第17回党大会に特別招待代表として姿を見せ、話題を呼んだ。

 80年5月に中国の首相として初めて日本を公式訪問。同年7月にも大平元首相の葬儀参列のため再訪日したが、9月には首相を退いた。


晩年の華国鋒氏
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華国鋒元中国共産党主席が20日、死亡した。写真は昨年10月、中国共産党の党大会で居眠りする華国鋒氏(後列左)。文化大革命期に台頭し、1977年に党主席に就任。しかし、80年代に実権を失った(北京) 【EPA=時事】


華国鋒氏死去 時代に敗れた毛沢東主義者
2008.8.20 23:24 産経新聞

 「彼には何も独自のものはなかった。ただ(毛沢東路線を全面肯定する)『二つのすべて』だけだった」。毛沢東の後継者、華国鋒氏について、鄧小平氏は1989年6月、そう評し、毛に次ぐ第二世代の代表は自分だと話した。

 しかし、華氏が江青・毛沢東夫人ら「四人組」の逮捕を決断した「功績」は、今日も高く評価されている。それがなければ、鄧氏が生涯3度目の復活を遂げ、改革・開放へ歴史的転換をすることもなかったかもしれなかったからだ。

 華国鋒氏の出自にはなぞが多い。公式資料では、出身地の山西省で少年期から抗日ゲリラ戦で活躍、新中国誕生後、毛沢東の郷里、湖南省湘潭県党書記に就任。以後、同省で党書記などを歴任した後、69年に党中央委員に抜擢(ばつてき)、73年には政治局入りと栄進を続けた。その間、59年の彭徳懐国防相解任事件では、彭氏を攻撃する材料を毛沢東に提供したといわれる。

 「なぞ」とは、なぜ山西省出身の華氏が毛の郷里の守り役に選ばれ、トントン拍子の出世をしたかに起因する。中国筋によると、華氏は毛沢東の「隠し子」で、本人がその公認を政治局に求めたことがあったという。

 76年1月に死去した周恩来首相の後任に、毛沢東が無名の華氏を選び、同4月の第一次天安門事件後には、党第一副主席に指名、事実上の「後継者」とするなど、その寵愛(ちようあい)ぶりから、「隠し子」説が広まった。

 76年9月に毛沢東が死去、江青夫人ら四人組との後継争いが起こると、華氏は葉剣英氏ら軍長老の助力を得て四人組逮捕を決行、2代目の党主席に就任した。しかし、毛沢東を崇拝、文革路線の全面継承を掲げた結果、文革被害者グループの挑戦を受けた。

 その頂点にいたのが、第一次天安門事件で3度目の失脚をした鄧小平氏。鄧氏は、広範な国民の人気をバックに長老らの支持を広げ、毛沢東派の抵抗を押し切り、77年夏復活を遂げる。そして78年5月、毛沢東の無謬性を打破する思想解放運動を展開、同年12月には文革路線から改革・開放への転換に成功した。

 鄧氏が事実上の最高実権を握った後、文革派は次々に追放され、華国鋒氏も81年6月、主席を辞任して副主席に降格、82年にはひらの中央委員になり、2002年に落選するまで留任した。華氏は毎年12月26日の毛沢東誕生日には天安門広場の毛沢東記念堂への参拝を欠かさなかった。

 毛沢東革命路線から鄧小平建設路線への歴史的転換の中で、華国鋒氏は政界から去り、四人組を打倒した功績以外には、凡庸な人物とみられてきた。しかし近年、改革・開放の矛盾が拡大し、毛沢東への再評価が高まるにつれ、華氏についても評価を見直す声が新左派の間には生まれている。

 とりわけ、華氏は主席辞任後には郷里の山西省に隠遁(いんとん)。他の指導者とは違って親族を含め、経済活動にかかわらず、在任中同様、腐敗とは無縁だったことも評価の対象になっている。(北京 伊藤正)

 ■華国鋒氏の足取り

1970年12月 湖南省党委員会第一書記

1973年 8月 党政治局委員

1975年 1月 副首相兼公安相

1976年 4月 党第一副主席兼首相

      9月 毛沢東が死去

     10月 四人組を逮捕。政治局会議で党主席

1977年 8月 第11回党大会で文革終結を宣言

1980年 5月 中国首相として初めて日本を公式訪問

      9月 首相を辞任

1981年 6月 党主席を辞任

2002年11月 第16回党大会で中央委員を辞任

2008年 8月 死去

by deracine69 | 2008-08-20 23:14 | アジア・大洋州  

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